ナチスに破壊された「廃墟の村」 オラドゥール=シュル=グラヌ (Oradour-sur-Glane)
夏のヴァカンスの1番の目的地
オート=ヴィエンヌ県 リモージュ市から20kmの北西の村
オラドゥール=シュル=グラヌ(Oradour-sur-Glane)
全然関係ないToraの写真の下からは、
戦争関連の内容で、ちょっと重い話と写真などが
多数ありますのでご注意ください。
最近、こんなオブジェに挑まなくなったすまし顔のTora
1歳10ヶ月 そろそろ大人? 落ち着くの? と期待して 記念撮影
1944年6月10日
ドイツの占領下でだったこの村でナチスの武装親衛隊による
大規模な虐殺が行われました。
村にいた村民のほぼ全員が殺されゴーストタウンとなって、
今年この村の80年の追悼集会のニュースを見た時、
まだ夏のヴァカンスを決めていなかったので、
ぜひこの地を訪れたいと思い、
フランスの最も美しい村巡りも兼ねて訪れました。
ニュースで流れたのは、村の一部でしたが、
実際訪れてみると広くて
当時の村は、400メートル 四方(約16ヘクタール)
焼けただれたそのままの姿で保存されていました。
戦後、新しい村は破壊された元の村から離れた所に再建されています。
広島の原爆ドームや長崎のレンガ造りの天主堂 山王神社二の鳥居など、
一部を想像していたので、
現実にこの村の中を歩いた感想は、
言葉で言い表せないほどの気持ちになりました。
1944年6月10日の土曜日の午後に、
突然、装甲車両に乗って現れた207人のナチス・ドイツのSS(親衛隊「Schuyasstaffel」)に襲撃されたそうです。
ナチス・ドイツのSSは村人を広場に集めて、
成人の男性は納屋に、女性と子供は教会に押し込めて、
処刑場のように押しこめた村人たちに機関銃の銃弾を浴びせ、
薪や麦などを放り込んで火をつけ、家屋や教会ごと焼き払ったそうです。
ドイツ兵はフランス人の鼓笛(こてき)隊を先頭に歩かせ、
村人たちに集まるように指示 身分証明書の確認ということだったそうです。
村は確かに存在していたのに、
人々の生活が目に心に浮かばないくらい破壊されていて、
戦争 虐殺の悲惨さに娘と涙しました。
(Toraが入場できなかったので、先に私と娘が見学。後で、夫と娘で再入場)
銃殺あるいは焼き殺された人 640人以上(女性240人、子供205人 男性197人)
焼失・崩壊建物318 (住宅123戸、学校4、駅 郵便局 商店などなど)
このような外壁を残す家並みが続きます。
説明の看板があったので想像するものの、
本当にこの地で人が生活してたのか、、、苦しくなりました。
脱出できた男性は5人
教会から脱出することができたのは女性1人だけだったそうです。
この日、たまたま村から出ていた人たちは助かったそうです。
村の墓地には、子供から老人まで多くの墓石に
1944.6.10 と刻印されていました。
村の中心を通る道には、
1949年に廃止された路面電車の村内の線路・架線なども保存されています。
広場には、今も焼けただれたピジョーが置かれていました。
虐殺された医師のデゾルトー氏のものだそうです。
プレートに書かれている「虐殺」の説明文
「ドイツ人による……」ではなく「ナチスによる……」と書かれていました。
何十年か前までは、「ドイツ人による……」と書いてあったそうですが、
ドイツ人とナチスとは分けるべきだという考え方が受入れられ、
書き換えたそうです。
確かにナチスによる犯罪とドイツ人による犯罪
一緒にはできないと私も思いました。
泥沼状態の戦闘が続く、ロシア・ウクライナ戦争 イスラエル・ハマス戦争
この二つが大きく報道されていますが、現在も終わっていない戦争・紛争が地球上に30から50はあるといわれています。
戦後シャルル・ド・ゴールは、オラドゥールを再建せず遺構として残すことを決め、ナチス占領の残忍さを後世に伝えるため、当時のまま留めようと決めました。
1999年には、フランス大統領ジャック・シラクがオラドゥールを訪問する人々に、
この村が経験した惨劇を伝えるためのメモリアル・センターを開設しました。
(サントル・ド・ラ・メモワール、Centre de la mémoire)
廃墟は未来へのメッセージ
虐殺の記憶を風化させず、子や孫らの世代に長く伝えていくため。
廃墟の村の入口には「思いおこせ命(SOUVIENNS TOI)」の看板が掲げられています。メモリアル・センターの壁には、
一人一人写真と名前が刻まれたプレートが並んでいました。
Je suis là 私はここにいます。
もし広島がそのまま残っていたら、、、、
もっと世界に原子爆弾の脅威を伝えられたのでしょうか。
NHKの朝の連続テレビ小説 「虎に翼」 を毎日視聴しています。
学校で学んでいた時は、すごく昔の話のようでしたが、
私が生まれた40年代は、まだ戦後20数年の月日しか流れていなかったんだと
このドラマを見ながらショックを受けています。
過去を語るだけでなく、現在、未来に
このようなことが起こらないようにするための人々へのメッセージ
ダラヌ川のほとり、森や林に恵まれた田園地帯が広がる中に
オラドール・シュル・グラヌ(ORADOUR SUR GLANE)の村があったです。
駐車場には、いろんな国からのナンバープレート
沢山の訪問者がいました。
静寂に包まれた村の中でいろんな思いを胸に刻んでいるようでした。
いまも多くの犠牲者を出し続けている戦争が終わる事を願い、
一人一人の尊い命をなくさないでと思う気持ちでいっぱいになります。
私たちの先祖も同じ歴史を刻んでしまっています。
私たち子孫ができることは何であるのか、、、
同じ過ちを起こさないで未来に繋げること 戦争反対と叫び続けること
そんな気持ちを娘に伝えました。
ドイツによるこのような集団報復が行われたのは、オラドゥールだけではなかった。ソ連(現・ウクライナ)のコーテリシー、チェコのリディツェ村、オランダのプッテン、イタリアのマルツァボットなどでも同様の虐殺が行われたそうです。
私は、このニュースを見るまでこの村のことは知りませんでした。
戦争で犠牲になり亡くなられた方達、
家族全員がなくなって子孫が途絶えた人たちが存在していたこと、
一人一人の名前は覚えられませんが、忘れないと心に刻みました。
今日も最後まで読んでいただきありがとうございました。










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